伯母捨 古式

金春円満井会 特別公演
2013年12月15日 国立能楽堂

シテ 金春安明
ワキ 森常好、ワキツレ 森常太郎、館田善博
間 大蔵吉次郎
太鼓 金春國和、 大鼓 安福健雄、 小鼓 大倉源次郎、 笛 一噌庸二

 金春流宗家による能「伯母捨 古式」を見てきた。

 陸奥信夫の住人が都から北陸路を経て善光寺に参拝する。
 その後、月見の名所、伯母捨山に着く。(この辺りは上掛と違う。上掛は都の者が月の名所、姨捨山を訪れる設定。)
 月を待つ一行の前に一人の老女が現れ、「古今和歌集」の歌、「わが心慰みかねつ更科や伯母捨山に照る月を見て」と口ずさみ、桂の木の下に捨てられた老女の悲嘆を語る。
 さらに老女は旅人らの月見の夜を慰めようと言い、また明月に心の闇を晴らしたいとも言って姿を消す。
 一行は里人からある物語を聞く。すなわち育ててもらった伯母をこの山に捨てた男と死して石になった老女の物語である。
 一行がさらに月を眺めつつ待っていると最前の老女の霊が白装束姿で現れ、月こそは大勢至菩薩の浄土であるとし、その情景を謡い、月光の功徳を称賛する。やがて昔を偲ぶ体で舞を舞う。
しかしながら、明月にも心の闇は晴れず、夜明けとともに月光も薄れ、旅の一行は去る。
 そして老女の霊は再び伯母捨山に一人残されるのであった。

 「伯母捨」(上掛では「姨捨」)の能を見たのはこれが三度目である。今回の能で初めて「伯母捨」が「伯母捨」として心に沁み込むのを感じた。どうして心が動いたのかを自分なりに考えてみた。
 結論を先に言うと、舞台に表現される「伯母捨」の世界観に自分が抱く「伯母捨」の世界観を感じ取ることできたからではないかと考えている。

  当流(宝生流)の姨捨の謡本にはゴマ節に細かい上げ下げの点が表記してなく(張や下、クリ、回節などは記載)、師伝によらなければ正確に謡うことは叶わない。謡込んで「姨捨」の雰囲気をイメージすことはできない。
 ではどうして「姨捨」の世界観などと言えるのだろうか。それは、能の解説本や観能記などの文章から得た知識としてのものだ。知識としての「姨捨」のイメージ、それは月光の下で舞う、純真な心を持った妖精のような老女というものである。小生の「姨捨」の世界観のポイントは「月光」と「妖精」である。

 一方演者にとって「姨捨」とはどういう能なのだろうか。
 老女ものと言われるこの能をシテはどういった心持で演じるのだろうか。ワキはシテの心持をどう受け止めるのだろうか。囃子方はどのような位でもって老女物の能の演奏をするのだろうか。
 これらの疑問に回答を求めることは小生の立場で到底できることではない。それでも当日見所にいて感じたのは、ある意味演者の側の統一された世界観である。

 舞台の上の統一された世界観は見所に一つのイメージを与え続けるのでないか。それを小生は「月光」と感じ取った。そして「月光」こそ「姨捨」の世界を醸成している根本であると感じた。

 月明かりの下舞う老女。透明感漂う序ノ舞を見ながら「姨捨」の世界観を感じ取ることができた至福の舞台であった。

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