弱法師 双調之舞

シテ 宝生和英 ワキ 宝生閑 間 山本則重
大鼓 亀井忠雄 小鼓 幸清次郎 笛 一噌庸二

東京囃子科協議会定式能 六月夜能
2015年6月10日 国立能楽堂

 囃子方が主催の公演ということで、宝生宗家に特にお願いして実現できたという弱法師『双調之舞』。貴重な演能を見る機会を得た。

 「弱法師」は、人の讒言により父親に家を追われ盲目となり乞食に身を落とした若者が、息子を追い出したことを悔いて天王寺で施行をしている父親と巡り会い、父と共に故郷に帰るという話だ。

 小書『双調之舞』は常の能でシテが舞う「イロエ」(舞台を一回りする短い舞)を「双調之舞」に変える。笛は通常の調子である黄鐘調より一音低い双調で奏する。しっとりとした雰囲気が醸し出される。

 まず、当日演奏された『双調之舞』について。
 横道萬里雄著「能にも演出がある」によると双調中ノ舞が舞われるとある。
 今回は双調序ノ舞が三段で舞われた。全て呂で段(常は呂、中、干で段)。二段が短かった。位はしっとりとしていて老女物のように最後まで早くならなかった。

 大倉源治郎師が番組の解説に書いておられる。

 「今回の小書(特殊演出)『双調之舞』では五行陰陽思想に従い春の調子である双調で笛が演奏されます。往事の風習では舞を奉納することは即ち神仏に対して祈願をする行為です。乞食乍らそれが出来、然も陰陽五行に則った春の調べで舞を舞えるこのシテは何者なのかをお客さまの心の目でご覧頂ければと思います。」

 この問い掛けを意識して舞台を見ていた。
 舞台の進行に従って、若者の姿が浮かび上がる。
 第一は施行の列に並ぶ乞食の姿。
 第二は境内に咲く梅の花に関するワキとのやり取りに見られる風流の姿。
 第三は「見るぞとよ、見るぞとよ」と呻くように声をあげる達観した姿。
 そして、双調之舞に見られる進まない歩みが浮かび上がらせる孤独な姿。

 賤しい身になりながら、自らの不幸を強いて嘆かず、現在を受け止め生きていく。
 そんな若者を見ているようだった。

 しかし、これは源次郎師の問い掛けにある心の目で見たものだったろうか。
 能の終盤にかかり父が息子に名乗るロンギが始まるまで、舞台をジット見つめていた。ロンギが始まりフッと息をついた。
 なぜか。舞台におけるシテの「気品」に強く感じ入ったからである。立ち姿、歩み、発声、ワキとのやり取り。いずれも上質な趣が感じられた。
 逆説的に考えれば、気品を備えたシテの登場により舞の奉納が可能になり春の調べに乗って舞が舞われたのではないか。

 我々が心の目で見るべきものはシテが舞台において備えるべき品格なのかもしれない。

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