能 「富士太鼓」

2013年2月3日 立春能 宝生能楽堂

 宝生流女流能楽師による立春能に行ってきた。
 その中で能「富士太鼓」の感想を書いてみる。

シテ 柏山聡子 子方 水上達 ワキ 安田登
大鼓 原岡一之 小鼓 田邊恭資 笛 八反田智子

能のあらすじ
 内裏での管弦の役を望んで都に上がった楽人富士は、役を争った浅間に逆恨みのため殺されてしまう。富士の妻は、富士が上がった夜の夢見が悪いので心掛かりのまま一人娘を連れて夫を訪ねて都に上ってくる。御所に来て夫が殺されたことを知り、官人から夫の形見の装束を渡される。妻は夫の形見の鳥甲、装束を身に着け、恨みの太鼓を打ち舞を舞っていたが、やがて迷いも恨みも晴らし故郷へ帰っていく。

 この能のシテは楽人富士の妻である。夫を殺された悲しみと憤りを夫が打ったであろう太鼓に向ける。舞台正先には太鼓の作り物が出ている。シテは夫の形見の装束に舞台上で着替え(物着)、その姿で夫の敵はこの太鼓であると激しく攻める。
 やがて富士の幽霊が来たると見えてもどかしくも太鼓を打つ体で舞を舞う。

 ここで舞われるのは”楽”である。楽は唐楽を学んだ曲であり、唐土に縁のある曲や舞楽に関連した能に用いられる。
 この能で楽が舞われるのは、太鼓という舞楽に関連しているからである。ストーリーの必然と言うより、能の決まりを優先しているからと考えられる。
 夫の幽霊が憑いて舞い始めるのに楽が最適かというと、この部分にイロエや例えばイロエ掛破ノ舞を舞っても能の展開に無理は生じないだろうと考えれば自ずと分かることだと思う。

それでも、今日の楽は心に染みる舞だった。

 「富士太鼓」の楽は、太鼓なしの大小楽と言われる。太鼓が入らない分、華やかさはなくしっとりとした舞である。
 大小楽が舞われる能に「天鼓」がある。こちらは唐土の物語で、秘蔵する鼓を帝に差し出さなかったため呂水に沈められた天鼓の霊が自らの弔いの場に現れて舞われる。
 「富士太鼓」、「天鼓」とも舞楽を奏する体で”楽”が舞われるが、両者には大きな違いがある。「天鼓」の楽は霊が舞い自らへの回向を喜ぶ気持ちがある。「富士太鼓」の楽は生身の富士の妻が舞う。しかも恨みを込めた舞である。

 今日の楽は役としての生身の人間が舞によってその恨みと悲しみを表現しようとしている点で、能の決まりとしての舞を超えた楽であったと思う。

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