能「海人 懐中ノ舞」

2010年7月19日 国立能楽堂
シテ(海士、竜女) 辻井八郎 子方(藤原房前) 辻井美遊 ワキ(従者) 森常好
太鼓 吉谷潔 大 安福光雄 小 鵜澤洋太郎 笛 一噌幸弘

 能には見所(クライマックスと言ってもいい)が必ずある。
 能「海人」の場合は竜宮に奪われた宝珠を取り戻した時の様子を仕方話に舞う「玉ノ段」が見所として挙げられる。今回、「玉ノ段」もよかった。だが、見所がそこだけに止まらなかった。意外にももう一カ所胸に響く見所があった。

 亡き母の追善のため、讃州志度の浦を訪れた藤原房前は、そこで一人の海女に出会う。海女が語る物語によって自らの出生の秘密を知る。すなわち、自らは父、淡海公(藤原不比等)と志度の浦の海女の間に産まれた子であった。
 淡海公は海女に竜宮に奪われた宝珠を取り戻すことができたなら、この子を世継ぎにと約束する。海女は我が子のため一命を捨てて宝珠を取り戻しに竜宮に向かうのであった。
 海女に宝珠を取り戻したときの様子を詳しく語らせ(玉ノ段)、やがて海女は宝珠を取り戻した房前大臣の母の幽霊と明かし、手紙を渡して姿を消した。
 追善供養の法華経を読誦するうちに龍女の姿となって現れた亡き母の霊は、成仏できたことを喜ぶ。

 さて、”あらありがたの御経やな”と龍女は早舞という舞を舞って成仏の過程を舞台の上で表現する。今回の小書き「懐中ノ舞」は早舞が常から大きく変わる。
 常は龍女(シテ)が持つ経巻(巻物)を脇座の房前大臣(子方)に渡した後、早舞の地に入る(渡すまで笛が会釈っている。)
 「懐中ノ舞」では、経巻を巻き戻したシテが自分の懐に経巻を入れた後、早舞の地に移る。舞の三段目に橋掛に出たシテが急の位に変わった囃子に乗って舞台に入り、脇座まで進み子方に懐の経巻を手渡したところで早舞の留めとなる。

 思いがけないクライマックスはここで訪れる。追善供養の法華経の経巻を懐に成仏した母の霊。追善した子が経巻を受け取る瞬間まさしく言葉にできない親子の情愛を感じた。

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